クララ・ハスキル1     914年 - 2003年

 



 1914年12月14日 - 2003年7月17日


ピアニストとしては、純粋な音色や、ハスキル自身のヴァイオリンの演奏経験に由来するというフレージングに特徴がある

彼女は自分の演奏会のチケットを同封した手紙を、師コルトーへ何度も送って来場を請うたが、コルトーは一度も会場に足を運ばなかった。遠山慶子がコルトーに、なぜクララのコンサートに行かず、そのくせ弟子たちには行ってきてその感想を伝えてくれと言うのか、その理由を問うと、コルトーはクララに明かさぬよう遠山に約束させた上でこう答えた。

「クララに必要なことは放っておくことだ。どのような人にどのように教えるべきかを発見するのが教師にとって一番むずかしいことだ。クララは、バランスがとれないような、孤独な時にもっとも素晴らしいものを生み出す才能がある。生涯満足をさせないことが彼女を生かす道なのだ。

またクララはモーツァルトのピアノ協奏曲第21番だけは決して演奏会でとりあげなかった。遠山に尋ねられたクララは、2つの理由を明かした。1つ目は、若くして亡くなった弟弟子のデヌリパティがあまりに完璧に弾いたからだと。そして2つ目についてはこう答えた。

「コルトーが私にはあの曲は弾けないと言ったのよ。私みたいに、死ぬほど人の前で弾くのが怖い人には。

クララは、ブリュッセルの駅で転落した際に負った怪我がもとで急死した。その翌日にグリュミオーと演奏会で共演することになっていた。意識を失って病院に担ぎ込まれたハスキルは医師の懸命の治療で短時間意識を回復し、パリから呼び出された妹たちに、翌日グリュミオーと演奏できないことを詫びるように伝え、さらに弱々しく彼女の手を上げて、「少なくとも、手だけは守って無事だったわ」と、微笑を浮かべて囁いた[  ・・・そうです

Rosalyn Tureck アメリカのピアニスト

 

1914年12月14日 - 2003年7月17日

バッハの専門家として知られるが、20世紀アメリカのピアノ曲の演奏にも取り組んでいる。イリノイ州シカゴ出身。父親はトルコの血を引くユダヤ系ロシア人

。テューレックは認めたがらなかったが、グレン・グールドがバッハ演奏家として独自の演奏様式を築く上で、テューレックの演奏を参考にしていたことは有名である。

1914~2003年 シカゴ出身 ロシア系ユダヤ人(父親はトルコ系)ジュリアード音楽院バッハ弾きと言えばドイツ辺りのピアニストが思い浮かぶしカール・リヒター(チェンバロ)、ソ連だけどリヒテル.:カナダのグールドの演奏が好きで良く聴いています。


このロザリン・テューレックは日本でレコードを見たことは無く手持ちにもありません。

グレン・グールドの伝記では名前がありましたが演奏は聴いていませんでした。
数年前音楽に詳しい友人からこの演奏家を教えてもらいました。
プリンストンの中古レコード店には有ったに違いないです。マリラ・ジョナスと共にきっとニアミスしています。
グールドはバッハの演奏はこの人の影響を受けていたそうです。
ベートーベンはクラウデオ・アラウです。
ロザリン・ティーレックと言えばバッハです。
私がバッハのピアノ(チェンバロ)曲の練習のお手本にするならこの人です。
グールドに影響を与えた人ですからグールドを連想させます。
マリラ・ジョナスもロザリン・テューレックもレコードを紹介する本では出てきていませんでした。

マリラ・ジョナス 1911 - 1959年 ポーランド生まれ

 伝説のマリラ・ジョナス[1911-1959]

ライナーノーツによると、彼女は、1920年、9歳でデビューし、1926年頃からは全ヨーロッパでリサイタルを開くようになります。しかし1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって、演奏活動は中断、彼女は強制収容所に収監されてしまいます。7か月以上収監された後、マリラ・ジョナスの演奏を聴いたことがあるドイツ人高官の手助けを得て脱走、徒歩で数か月かけてベルリンのブラジル大使館まで逃亡し、ブラジルへ亡命します。その後、アルトゥール・ルービンシュタインに見出され、1946年にアメリカでのデビューを果たします。このリサイタルを聴いたニューヨーク・タイムズの評論家が彼女を絶賛し、次第に人気がでるようになりますが、厳しい収容所生活のせいもあり、1959年にわずか48年の生涯を閉じてしまいます。マリラ・ジョナス(Maryla Jonas, 1911~1959年)


ポーランドのピアニスト、マリラ・ジョナスは、ナチス・ドイツの協力を拒否したため、家族を殺され、クラクフの収容所へ送られる。ところが彼女のファンだった将校の手引きで脱走に成功。ベルリンまで数週間を野宿しながら歩き続け、ブラジル大使館に駆け込んで南米へ逃れる。その後は神経衰弱で演奏から遠ざかるが、ルービンシュタインの助けで奇跡のカムバックを果たして大評判となった。まるで映画のような話だ。そんな彼女の数少ない録音から、店主は愛情を込めてショパンの小品集を復刻した。


生まれ: 1911年5月31日, ポーランド ワルシャワ

彼女の演奏は軽く聞き流すことができるようなものではなく、魂の深いところから、音楽が湧き出ている上、なんともいえない澄み切った抒情感のようなものも感じられるものです。時空を歪めさせるというか、「時間」の感覚をなくさせるような、そんな不思議な魅力が、彼女の演奏にはあります。その秘密は彼女のテンポの設定と、そのゆらぎにあると思うのですが、一度、聴き始めると、そんな屁理屈なんてどうでもよくなって、彼女の演奏にただただ魅せられてしまいます。



マリラ・ジョナスMaryla Jonasówna、1911年5月31日 - 1959年7月3日)
ポーランド生まれのクラシックピアニストで、ナチスから逃れてブラジル、後にアメリカ合衆国に移住した。
ワルシャワユダヤ人の家庭に生まれ、8歳か9歳でピアニストとしての才能を発揮し始めた

1933年、ジョナスはウィーンでベートーヴェン賞を受賞し、その後ヨーロッパを拠点に演奏活動で成功を収めました。

ヨーロッパを巡業するピアニストとしての地位を確立したヨナスの成功は、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻によって影を潜めることとなった。彼女は、ベルリンへ移住し、より安全な環境で演奏しないかというゲシュタポ工作員の誘いを断った。その結果、ヨナスは逮捕され、数週間拘留された。かつてドイツで彼女の演奏を聞いたドイツ人将校が彼女に同情し、釈放させた。そのドイツ人将校は、ヨナスにベルリンへ行き、ブラジル大使館に助けを求めるよう助言した。ヨナスはドイツ人将校の助言に従い、食料も乏しく安全な避難場所もないまま、数百マイルを徒歩でベルリンへ向かった。この長距離歩行はヨナスの健康に深刻なダメージを与え、48歳という若さでの死につながった可能性がある。ジョナスはベルリンからリスボンを経て、最終的にブラジルの首都リオデジャネイロに定住した。1940年、ブラジル滞在中にジョナスは神経衰弱に陥り、数か月間療養所で過ごした。快方に向かいつつあるように見えた矢先、兄の一人が亡くなったという悲報が届き、続いて夫と両親も亡くなったという知らせが届いた。これらの悲痛な喪失により、ピアニストとしての彼女の将来は絶望的に思われた。ジョナスの姉と、同じくポーランドの有名なピアニストであるアルトゥール・ルービンシュタイン[ 6 ]がジョナスに支援を申し出て、彼女がピアノ音楽の演奏と録音に戻る可能性を開いた。彼女はニューヨークでキャリアを再開し、 1946年2月にカーネギーホールでデビューした[ 7 ]。


▲1946年2月25日、ニューヨーク、カーネギー・ホールでアメリカ・デビューして成功を収め、ピアニストとして復活したのです。その見事な演奏は、特にニューヨーク・タイムズ紙のオリン・ダウンズや、作曲家でニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のヴァージル・トムソンといった名うての評論家たちを夢中にさせたのでした。
■その約5年後、ジョナスはシューマン「謝肉祭」を演奏中に体調を崩し、舞台袖に戻ったところで倒れました。すぐに回復し、ステージに戻ったジョナスは予定された演目を弾き終えましたが、再び演奏活動から離れ、結局1956年12月のカーネギー・ホールでのリサイタルが、最後の演奏となりました。1959年7月3日、ジョナスは極めて稀な血液の病気で48歳の生涯を閉じました。

▲「ショパンの音楽は『死』と隣り合わせ」(イリーナ・メジューエワ)だから。

 「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。(中略)もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。」

個人的な嗜好としては、ポーランド人のピアニストのショパンに惹かれる。どちらかと言えば、ショパンの正統性、民族性、たとえばポロネーズはこのように、マズルカはこのように弾くのだという香りのするピアニストよりは、ポーランド人でありながら、国外に逃れ、外から祖国を愛憎交えて見つめたであろうピアニストたちの演奏に惹かれる。パデレフスキ、フリードマン、ローゼンタール・・・むろん、彼らの生きた時代というものの特性、具体的にはロマンティシズムというものを、より感じるが、Hの言葉ような「居場所がないんだ」とか「祖国への愛、そして憤り」のようなものをも感じる。感情をぶつけ、昇華させると、それは悲哀に満ちたロマンティックな演奏になるのだろうか?


▲マリラ・ジョナスは名匠トゥルチンスキに師事しているので、ショパン、ポーランドの正統性というものを最も引き継いだピアニストともカテゴライズできるとは思うが、その演奏は「これが正しいショパンなのです」以上のものを感じる。外から祖国を見つめた視点、感情が加味されているというのだろうか?
彼女は強制収容所から脱走した経験を持つ。家族は全員惨殺された。徒歩でベルリンまで逃れる。ベルリンのブラジル大使館に保護を求めたのだ。ブラジルに渡った彼女は、もちろん命だけは助かったわけだが、心は閉ざしてしまった。ピアノも弾かなくなってしまった。そんな彼女に手を差し伸べたのが、アルトゥール・ルービンシュタイン。彼は国際人というイメージが強いが、彼もポーランド人、誇り高きポーランド人である。同じポーランド人としての誇り、血が彼女を救ったのではないだろうか?
ルービンシュタインは自分のリサイタルのリハーサルに彼女を誘う。「自分の音を客席で聴くことはできないからね。客席での音を聴いてみたいんだ。君、ちょっと弾いてみてくれないか?」
強制収容所以来、ピアノなど弾いていなかったはずだ。それよりも、心を閉ざしてしまった彼女にとって、キーを触る瞬間までにどのような心の動きがあったのだろう、それを思うと胸が熱くなり、そして痛くなる。
数年後、彼女はカーネギーホールでカムバックした。ルービンシュタインの推薦があっても、無名のポーランド女性のリサイタルなど誰が聴くだろう?会場は無料席にチラホラと聴き手がいるだけというガラガラの状態だった。でも一人の批評家が彼女の魂を聴いたのだ。「こんなショパンをかつて聴いたことがあっただろうか?」
あまりにも収容所での経験、そして逃亡生活が彼女のすべてを奪ってしまったのだろうか?マリラ・ジョナスはその後、48歳という生涯を閉じることになる。
素敵なだけではないショパン、ポーランドを感じるショパン、愛憎を感じるショパン、そこがショパンの難しさなのかもしれない。

▲一聴して私が感じたのは「厳しさ」でした。なんというか演奏者の真剣さがそのままダイレクトに伝わってくるというか、軽く聴き流すといったことが出来ない雰囲気があります。愛しんで弾いているというよりも、一つの芸術作品に真っ向から挑んでいるということなのだと思います。私はいつの間にか姿勢を正し、これらの演奏を真剣に聴くこととなりました。
マリラ・ジョナスの演奏には、何と言ったら良いのか、言葉にするのが難しいのですが、時空すら変えてしまうような特別な力としか言いようのないものを感じます。私はいつもその力の虜となり、魅せられてしまうのです。多分、その秘密は彼女のテンポの設定と、そのゆらぎにあるのではと思うのですが、気付くと(そんな事を忘れて)ただただ聴き入ってしまっている自分がいます。

▲この人は数奇の運命を辿った。ユダヤ人であったため、ナチスにより強制収容所に入れられてしまう。そこで過ごすのだ。でもそこから必死で脱出する。ポーランドのクラクフからドイツのベルリンまで約600キロを徒歩で逃げるのだ。人目を避けながらの逃避行だっただろうと想像する。飢えと寒さに堪えつつ、夜の闇に紛れて歩いたのだと思う。「ベルリンのブラジル大使館を目指しなさい・・・」逃がしてくれたドイツ将校の言葉を頭の中でくり返しながら・・・

ブラジル大使館に保護された時、彼女はボロボロになっていたという。生きる屍のような状態だったと。ブラジルで療養所で暮らし始める。そこで聞く家族の訃報。家族は惨殺されたのだ・・・
彼女は心を閉ざし、ピアノを弾くことはなかった。弾けなかったのだろう。そんな彼女を再びピアノの世界に導いたのはアルトゥール・ルービンシュタインだった。彼女は再びピアノを弾き始めた。その音楽は凄まじいまでの哀しみとメッセージ、憤りを感じさせるものとなった。あまりにも運命は彼女にとって過酷だったのだろう。非常に若くしてマリラ・ジョナスは亡くなってしまう。48歳だっただろうか?
一瞬の輝きであったマリラ・ジョナスの演奏活動であったが、彼女はこの時期に録音を残している。やはり個人的にはショパン、それもマズルカの演奏が圧倒的に素晴らしいと思う。聴き手に何かを語らせることを拒絶させてしまうような演奏ですらある。
マリラ・ジョナスの演奏する遺作のノクターン。この曲は作品9-2と並んで演奏される機会も多く、どこか通俗的な感じを僕は抱いていたものだ。マリラ・ジョナスの演奏を聴くまでは・・・
一人の人間にここまでの演奏をさせてしまう運命というものを思う・・・

https://www.youtube.com/watch?v=M2XGQdIHMMk&t=6s






 イーヴォ・ポゴレリチ  ( ピアニスト)旧ユーゴスラヴィア

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 イーヴォ・ポゴレリチ  ( ピアニスト)

1958年、10月20日旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードにて、クロアチア人の父イヴァンとセルビア人の母ダリンカの間に生まれる父イヴァン・ポゴレリチはコントラバス奏者・指揮者

チャイコフスキー記念モスクワ音楽院

生来の反骨精神から伝統に敢えて刃向かう演奏に傾倒し、教師たちとたびたび衝突、3度にわたって音楽院を退学処分寸前になる。派手な服装や目立つ言動のため、西側寄りの要注意学生として音楽院側から再三、忠告・指導を受ける。

グルジア人ピアニストで著名な学者でもあったケゼラーゼから個人的にピアノの指導を受け始める。最初に取り組んだ曲はベートーヴェンのソナタ。ケゼラーゼとの出会いは、ポゴレリチの演奏家人生に大きな影響を与えた。



コンクールのヒーロー
第14回モントリオール国際音楽コンクールピアノ部門第一位

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https://www.youtube.com/watch?v=yH3sgf6Lt3M&t=59s




これまでのショパン解釈からは到底考えられない彼の演奏は奇抜すぎるとする他審査員に対し、審査員の一人マルタ・アルゲリッチが「彼こそ天才よ」といい、その場から立ち去り抗議。審査員を辞任する騒ぎとなった。
この一連の出来事は「ポゴレリチ事件」と呼ばれるようになり、ショパン国際ピアノコンクールの歴史を語る上で避けられない出来事となった
▲ポゴレリチ本人は、この事件は自身の音楽的解釈ではなく、審査員同士の政治的要因によって引き起こされたと語っている
]コンクール後はドイツ・グラモフォンと契約、ショパンやラヴェルなどアルバムを多数リリースした。同年、アリザ・ケゼラーゼと結婚。その時彼は19歳。 アリスは33歳で、彼女には学者の夫との家庭があり、8歳の息子がいたのです。アリスはポゴレリチにとって 彼を芸術の源に導くことのできる優れた教師であり ミューズであり 母親であり つまりはすべてを持った女性でした。


▲1996年2月16日、妻のアリザ・ケゼラーゼが肝癌により死去。そのショックを受け、多くのリサイタルがキャンセルになる

▲批評家は、彼のスターダムは、彼の才能ではなく、「彼の奇抜さに基づいたポップスタイルの宣伝のおかげ」であると述べた

ニューヨーク・タイムズの批評家ハロルド・C・ショーンバーグは、ベートーヴェンのソナタ作品111の演奏速度が異常に遅いとしてポゴレリチを批判し、さらに「ポゴレリチはロマン派ピアノ界のグレン・グールドになろうと必死になっているようだが、グールドの奇抜さは持っていても、彼のような才能はない」と評した[


△20年後、別のニューヨークタイムズの評論家であるアンソニートマジーニが、同じ作品のパフォーマンスを評して次のように書いた。「悲劇的に迷走するとてつもない才能。いったい何が悪かったのだろう?」

演奏するたびにその毒々しいまでの個性で賛否両論を巻き起こす、鬼才ポゴレリッチ。周囲に媚びることなく自身のアートを追求してきたポゴレリッチの表現の個性は、21世紀に入ってさらに濃度を増しています。


イギリスの古典的なピアニスト、ピーター・ドノホーは、ポゴレリチのキャリアを通じて批評家からの一連の「屈辱的な攻撃」に言及した。 批評家は、彼のスターダムは、彼の才能ではなく、「彼の奇抜さに基づいたポッげ」であると述べた


▲非常に遅いテンポや極端な強弱の対比など、自由奔放な演奏は常に議論の的となってきたが、一貫して追求してきたのは、「ピアノとの関係性」だという。「タッチ、ピアノから戻ってくる音、ハーモニー、間合い、旋律とそのほかの部分との関係、そこから自分が何を感じ取るのか……そういったものをどんどん発展させてきました」
▲極端に遅いテンポ、破壊的なフォルテシモ、奇怪なフレージングなど、ポゴレリッチの演奏は決して万人に受け入れられる「快い」ものではない。しかし、誰にも似ていない超然とした演奏には、言葉では語るのが難しい巨大な魅力がある

▲シューマンの交響的練習曲は、無条件の愛といえども、ポゴレリッチの驚くべき(ちょっとやり過ぎ)強烈な打鍵に圧倒された時代があったのでちょっと心配したがシベリウスの悲しきワルツは、奈良のお寺でのNHK収録の時は骸骨と踊っているようなワルツだと思ったけど、今日のワルツはその時よりもさらに、ずっとずっと悲しい。本当に悲しい。こんなに悲しい音楽は、それだけの悲しさを体験した人でないとできないのかと思いながら聴いていたけど、その宇宙レベルの悲しさと絶対的な美があいまって、その響きの美しさとともに、生涯忘れられないであろう演奏となった。

▲ポゴレリッチの音楽は万人受けする音楽ではないので、今日の演奏を受け入れられなかった人もいると思う。でも音楽ってそんなものだと思う。

。モーツァルトのソナタで、9歳から12歳くらいの子どもが普通弾くような、と思われている曲ですが、そこから音楽を生み出すのがいかに難しいかと言った人がいます。それは本当です。簡単な音楽というのはありません。易しいように見えても、易しい音楽というのはないんです

▲楽譜として残された楽曲を扱うとき、わたしたちはそれを演奏するたびに再創造します。楽曲に命を与えるためです。それをするために、そして聴衆が音楽の意味を手にするために、わたしたちは自らを重要だと考えます。

▲ピアノを弾くことは楽しいでしょうか?

楽しくはありません。とても厳しい仕事です、楽しみからはほど遠いですね。音楽を生むのがさも楽しいように言うのは、イギリスの思想です。楽しくはないです。芸術の一種ですね。

▲デビュー盤『ショパン・リサイタル』には、22歳のポゴレリッチの見事な反骨精神と孤高の美学が溢れ出していて、今聞いても少しも色あせたところがない。強烈な「個」を打ち出した音楽性は、逆にこの人の月並みならぬ「客観」を映し出しているとも言えます


チャーミングなところが微塵もないピアノ。

こんなピアノ誰も弾けません。

まさに「世界でただひとりのピアニスト」です


ペダル使いが明らかに少なく、挑戦的で、硬い音質と緊密なテンポが斬新なショパン。
 こんな弾き方があるのか、後にも先にもこんな『葬送』はポゴレリチ以外には聴けないのではないかと衝撃を受けた演奏でした。


ポゴレリチの演奏を聴いて思うことは、「本当にショパンが伝えたかったことはこういうことだよな」ということ。










フランス人女性ピアニスト

Mさんへ

レコードに関しては余りニュースが無かったので 
久しぶりのメールです。

最近クラシック音楽に詳しい娘と同世代の人と知り合い
初めて聞く名前の演奏家を教えてもらいました。
フランスのピアニストですが
例えばラベルの「夜のガスパール」に関して
マルタ・アルゲリッチとかぺルルミュテールが
ラベルが褒めそうな演奏に思えてお気に入りでしたが
その彼が
Marcell Meyer (1897-1958)
Aqnelle Bundervoet(1922-2015)
がいいと推薦しますので
YouTubeで聴いてみました。
https://www.youtube.com/watch?v=Yh0XQsb2sW8
https://www.youtube.com/watch?v=9GxrZTGXTe4
アメリカでもレコードで見たことはありませんでした。
1970年あたりレコードの時代に活躍している
人たちですが日本では紹介されてこなかったようです。
演奏にも来ていないとありますが、こういうこともあるので
今更ながら驚いています。
レコードで聴きたいと思いますので
ネットで検索しました。
日本ではプレスされていないのでフランス盤だと思いますが
数万円・・・
こういう演奏家を知らなかったのはいささかショックです。
フランスでもレコード探ししましたが
知っている演奏家の範囲で探しましたので見つかるはずが
ありません。たぶんアメリカでも見ていないと思います。
探して見てください。

Nさんの輸入盤リストも見ましたがありませんでした。
もしあったとしても1枚2~3万円は評価したでしょう。
「不滅の名盤」など1990年代の情報誌でも
紹介されていません。コルトーなどの指導を受けている
という時代の演奏家です。
プリンストンでもしプレミア価格でも高くて40ドル。
これくらいなら即買いです。・・・無さそうなので期待しないで。

アニュエル・ブンダヴィエとマルセル・メイエ
 
優れた演奏家はいい顔をしています。

CDやネットでは最近の演奏家
例えばパスカル・ロジェ、
ジャン・フリップ・コーラル聴きましたが一度聴いただけです。
ロジェは今年の秋、鹿児島(みやまコンセール)にきましたが
聴きに行くほどの関心はないでした。

評論家(一人だけではなく)が推薦するレコードを
目安に探していましたが その彼は評論家の言うことは
信用していない、自分の耳を・・・と言いますが
まったく恐れ入りました。脱帽です。
片っ端から聴いて確かめる時間はありませんので
無駄をしないいい探し方と思っていましたが
これに意外な落とし穴がありました。
日本へ演奏活動に来ない演奏家は余り紹介されていないのです。

79年代の本や音楽雑誌読みながらのレコード探しは
辞めてネットで配信される音源に切り替えようかと思います。
最近音が良くなっています。
24Bitやハイレゾでなくても・・。





Mさんへ イタリアの中古レコード

イギリスのデッカ盤 5ユーロは安い。
 マイルス・デイビスは23ユーロ

 リヒャルト・シュトラウス オペラ「火の危機」 珍しい。8ユーロ
ウイルヘルム・ケンプのベートーベン、ピアノソナタ  5ユーロ
いずれも状態はいい。値段は アメリカに比べると倍以上。
フランスより安いか・・・そう変わらない。 日本の半分以下。
結局欲しいものは見つからず、・・・1枚も買いませんでした。
コンサートも教会で行われるのがたくさんありましたが
教会では残響が強く聴きずらいので行きませんでした。
その代わりパイプオルガンはよく聴きました。

4月23日 テベレ河畔でコンサート

川幅は約30Mでしょうか・・・
向こう岸で演奏、川向で聴くという野外コンサートです。
演奏はローマオペラ劇場管弦楽団と合唱団。
演目はオルフのカルミナ・ブラーナ

シスト橋

テベレ川・・・。ローマらしい粋な計らいです。
ベルルオーズかマーラー、ワーグナーでなければオルフでしょう。
もちろん電気音響は使っていますが、30m隔てても十分楽しめました。