伝説のマリラ・ジョナス[1911-1959]
ライナーノーツによると、彼女は、1920年、9歳でデビューし、1926年頃からは全ヨーロッパでリサイタルを開くようになります。しかし1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって、演奏活動は中断、彼女は強制収容所に収監されてしまいます。7か月以上収監された後、マリラ・ジョナスの演奏を聴いたことがあるドイツ人高官の手助けを得て脱走、徒歩で数か月かけてベルリンのブラジル大使館まで逃亡し、ブラジルへ亡命します。その後、アルトゥール・ルービンシュタインに見出され、1946年にアメリカでのデビューを果たします。このリサイタルを聴いたニューヨーク・タイムズの評論家が彼女を絶賛し、次第に人気がでるようになりますが、厳しい収容所生活のせいもあり、1959年にわずか48年の生涯を閉じてしまいます。マリラ・ジョナス(Maryla Jonas, 1911~1959年)
ポーランドのピアニスト、マリラ・ジョナスは、ナチス・ドイツの協力を拒否したため、家族を殺され、クラクフの収容所へ送られる。ところが彼女のファンだった将校の手引きで脱走に成功。ベルリンまで数週間を野宿しながら歩き続け、ブラジル大使館に駆け込んで南米へ逃れる。その後は神経衰弱で演奏から遠ざかるが、ルービンシュタインの助けで奇跡のカムバックを果たして大評判となった。まるで映画のような話だ。そんな彼女の数少ない録音から、店主は愛情を込めてショパンの小品集を復刻した。
彼女の演奏は軽く聞き流すことができるようなものではなく、魂の深いところから、音楽が湧き出ている上、なんともいえない澄み切った抒情感のようなものも感じられるものです。時空を歪めさせるというか、「時間」の感覚をなくさせるような、そんな不思議な魅力が、彼女の演奏にはあります。その秘密は彼女のテンポの設定と、そのゆらぎにあると思うのですが、一度、聴き始めると、そんな屁理屈なんてどうでもよくなって、彼女の演奏にただただ魅せられてしまいます。
マリラ・ジョナス(Maryla Jonasówna、1911年5月31日 - 1959年7月3日)
ポーランド生まれのクラシックピアニストで、ナチスから逃れてブラジル、後にアメリカ合衆国に移住した。
ワルシャワでユダヤ人の家庭に生まれ、8歳か9歳でピアニストとしての才能を発揮し始めた1933年、ジョナスはウィーンでベートーヴェン賞を受賞し、その後ヨーロッパを拠点に演奏活動で成功を収めました。
ヨーロッパを巡業するピアニストとしての地位を確立したヨナスの成功は、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻によって影を潜めることとなった。彼女は、ベルリンへ移住し、より安全な環境で演奏しないかというゲシュタポ工作員の誘いを断った。その結果、ヨナスは逮捕され、数週間拘留された。かつてドイツで彼女の演奏を聞いたドイツ人将校が彼女に同情し、釈放させた。そのドイツ人将校は、ヨナスにベルリンへ行き、ブラジル大使館に助けを求めるよう助言した。ヨナスはドイツ人将校の助言に従い、食料も乏しく安全な避難場所もないまま、数百マイルを徒歩でベルリンへ向かった。この長距離歩行はヨナスの健康に深刻なダメージを与え、48歳という若さでの死につながった可能性がある。ジョナスはベルリンからリスボンを経て、最終的にブラジルの首都リオデジャネイロに定住した。1940年、ブラジル滞在中にジョナスは神経衰弱に陥り、数か月間療養所で過ごした。快方に向かいつつあるように見えた矢先、兄の一人が亡くなったという悲報が届き、続いて夫と両親も亡くなったという知らせが届いた。これらの悲痛な喪失により、ピアニストとしての彼女の将来は絶望的に思われた。ジョナスの姉と、同じくポーランドの有名なピアニストであるアルトゥール・ルービンシュタイン[ 6 ]がジョナスに支援を申し出て、彼女がピアノ音楽の演奏と録音に戻る可能性を開いた。彼女はニューヨークでキャリアを再開し、 1946年2月にカーネギーホールでデビューした[ 7 ]。
▲1946年2月25日、ニューヨーク、カーネギー・ホールでアメリカ・デビューして成功を収め、ピアニストとして復活したのです。その見事な演奏は、特にニューヨーク・タイムズ紙のオリン・ダウンズや、作曲家でニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のヴァージル・トムソンといった名うての評論家たちを夢中にさせたのでした。
■その約5年後、ジョナスはシューマン「謝肉祭」を演奏中に体調を崩し、舞台袖に戻ったところで倒れました。すぐに回復し、ステージに戻ったジョナスは予定された演目を弾き終えましたが、再び演奏活動から離れ、結局1956年12月のカーネギー・ホールでのリサイタルが、最後の演奏となりました。1959年7月3日、ジョナスは極めて稀な血液の病気で48歳の生涯を閉じました。
▲「ショパンの音楽は『死』と隣り合わせ」(イリーナ・メジューエワ)だから。
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。(中略)もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。」
個人的な嗜好としては、ポーランド人のピアニストのショパンに惹かれる。どちらかと言えば、ショパンの正統性、民族性、たとえばポロネーズはこのように、マズルカはこのように弾くのだという香りのするピアニストよりは、ポーランド人でありながら、国外に逃れ、外から祖国を愛憎交えて見つめたであろうピアニストたちの演奏に惹かれる。パデレフスキ、フリードマン、ローゼンタール・・・むろん、彼らの生きた時代というものの特性、具体的にはロマンティシズムというものを、より感じるが、Hの言葉ような「居場所がないんだ」とか「祖国への愛、そして憤り」のようなものをも感じる。感情をぶつけ、昇華させると、それは悲哀に満ちたロマンティックな演奏になるのだろうか?
▲マリラ・ジョナスは名匠トゥルチンスキに師事しているので、ショパン、ポーランドの正統性というものを最も引き継いだピアニストともカテゴライズできるとは思うが、その演奏は「これが正しいショパンなのです」以上のものを感じる。外から祖国を見つめた視点、感情が加味されているというのだろうか?
彼女は強制収容所から脱走した経験を持つ。家族は全員惨殺された。徒歩でベルリンまで逃れる。ベルリンのブラジル大使館に保護を求めたのだ。ブラジルに渡った彼女は、もちろん命だけは助かったわけだが、心は閉ざしてしまった。ピアノも弾かなくなってしまった。そんな彼女に手を差し伸べたのが、アルトゥール・ルービンシュタイン。彼は国際人というイメージが強いが、彼もポーランド人、誇り高きポーランド人である。同じポーランド人としての誇り、血が彼女を救ったのではないだろうか?
ルービンシュタインは自分のリサイタルのリハーサルに彼女を誘う。「自分の音を客席で聴くことはできないからね。客席での音を聴いてみたいんだ。君、ちょっと弾いてみてくれないか?」
強制収容所以来、ピアノなど弾いていなかったはずだ。それよりも、心を閉ざしてしまった彼女にとって、キーを触る瞬間までにどのような心の動きがあったのだろう、それを思うと胸が熱くなり、そして痛くなる。
数年後、彼女はカーネギーホールでカムバックした。ルービンシュタインの推薦があっても、無名のポーランド女性のリサイタルなど誰が聴くだろう?会場は無料席にチラホラと聴き手がいるだけというガラガラの状態だった。でも一人の批評家が彼女の魂を聴いたのだ。「こんなショパンをかつて聴いたことがあっただろうか?」
あまりにも収容所での経験、そして逃亡生活が彼女のすべてを奪ってしまったのだろうか?マリラ・ジョナスはその後、48歳という生涯を閉じることになる。
素敵なだけではないショパン、ポーランドを感じるショパン、愛憎を感じるショパン、そこがショパンの難しさなのかもしれない。
▲一聴して私が感じたのは「厳しさ」でした。なんというか演奏者の真剣さがそのままダイレクトに伝わってくるというか、軽く聴き流すといったことが出来ない雰囲気があります。愛しんで弾いているというよりも、一つの芸術作品に真っ向から挑んでいるということなのだと思います。私はいつの間にか姿勢を正し、これらの演奏を真剣に聴くこととなりました。
マリラ・ジョナスの演奏には、何と言ったら良いのか、言葉にするのが難しいのですが、時空すら変えてしまうような特別な力としか言いようのないものを感じます。私はいつもその力の虜となり、魅せられてしまうのです。多分、その秘密は彼女のテンポの設定と、そのゆらぎにあるのではと思うのですが、気付くと(そんな事を忘れて)ただただ聴き入ってしまっている自分がいます。
▲この人は数奇の運命を辿った。ユダヤ人であったため、ナチスにより強制収容所に入れられてしまう。そこで過ごすのだ。でもそこから必死で脱出する。ポーランドのクラクフからドイツのベルリンまで約600キロを徒歩で逃げるのだ。人目を避けながらの逃避行だっただろうと想像する。飢えと寒さに堪えつつ、夜の闇に紛れて歩いたのだと思う。「ベルリンのブラジル大使館を目指しなさい・・・」逃がしてくれたドイツ将校の言葉を頭の中でくり返しながら・・・
ブラジル大使館に保護された時、彼女はボロボロになっていたという。生きる屍のような状態だったと。ブラジルで療養所で暮らし始める。そこで聞く家族の訃報。家族は惨殺されたのだ・・・
彼女は心を閉ざし、ピアノを弾くことはなかった。弾けなかったのだろう。そんな彼女を再びピアノの世界に導いたのはアルトゥール・ルービンシュタインだった。彼女は再びピアノを弾き始めた。その音楽は凄まじいまでの哀しみとメッセージ、憤りを感じさせるものとなった。あまりにも運命は彼女にとって過酷だったのだろう。非常に若くしてマリラ・ジョナスは亡くなってしまう。48歳だっただろうか?
一瞬の輝きであったマリラ・ジョナスの演奏活動であったが、彼女はこの時期に録音を残している。やはり個人的にはショパン、それもマズルカの演奏が圧倒的に素晴らしいと思う。聴き手に何かを語らせることを拒絶させてしまうような演奏ですらある。
マリラ・ジョナスの演奏する遺作のノクターン。この曲は作品9-2と並んで演奏される機会も多く、どこか通俗的な感じを僕は抱いていたものだ。マリラ・ジョナスの演奏を聴くまでは・・・
一人の人間にここまでの演奏をさせてしまう運命というものを思う・・・
https://www.youtube.com/watch?v=M2XGQdIHMMk&t=6s